アグス


 今年は、アグスが26歳の若さで、突然、理不尽に命を奪われて、10年になります。8月、私たちは、アグス追悼の旅に出ます。


 アグスと知り合ったのは、1997年12月、横浜の小さな開発NGOスタディツアーでした。夫は友人に誘われてホイホイそこの運営スタッフの仲間入りをしていましたが、冷静な私は距離を置いて眺めていました。スタディツアーに参加したのも、単なる観光旅行では行けないような、フツーの人々の生活や仕事に触れられる、という好奇心が半分以上を占めていました。


 アグスは、そのツアーの通訳でした。現地NGOから紹介されたのですが、その日本語力、礼儀正しい態度、愛くるしくお茶目な素顔にただただ感動。ツアー2日目には、一行の中のオバサマが、もう、「彼女いるんですって。オーストラリア人なんですって」と情報をキャッチしていて、驚く一同を前に、名指しで、「K子さんももうすぐよ!」 でも、それから12年経ちましたが、まだまだ私は初対面のイケメンに彼女の有無を尋ねられるようにはなっていません。ちなみに、このオバサマは、現在、Z市の市議会議員をつとめておいでです。


 話をしているうちに、その年の夏まで、アグスは、交換留学で1年間、日本の大学にいたことがわかりました。奇しくも、当時私の通っていた大学院と同じでした。アグスは、ジョグジャカルタの名門ガジャマダ大学(人呼んでインドネシアの京大)で政治学を学んでいました。卒業論文のテーマは、米軍占領下の沖縄でした。でも、沖縄には行ったことがない、というので、次に日本に来る時は一緒に行こう、基地の中に街があるそのさまをぜひ直接見せたい、と、私たち夫婦は本気で考えていました。


 卒業後の進路について、アグスは、大学院への道も考えないではなかったようです。しかし、世界史の大きな流れがアグスをのみこみ、アグスはジャーナリストの道を選びました。スハルトの長期独裁政権が倒れるという、歴史的転換点にたちあったものとして、アグスは、市民運動、軍の弾圧、ストリートチルドレンの記録をとり続けました。
 スハルト圧政下のインドネシアでは、あちこちに独立運動がおこっていました。現在もそれは続いています。スハルトが99年5月に退陣したあと、後継のハビビは、最も独立の機運を高めていた東チモールで、独立をめぐる住民投票を実施しました。


 8月30日住民投票、圧倒的多数での独立支持という投票結果が発表されたのが9月4日。その直後から、インドネシアの国軍や民兵によって、焦土作戦が展開されました。独立を阻むため、虐殺・焼き打ち・略奪などが横行し、無政府状態となりました。海外のメディアは危険な状態となったため次々と東チモールを脱出しました。国連軍が投入されるまでの1ヶ月間、東チモールは世界の目の届かないところとなってしまいました。


 アグスは、8月後半、東チモール入りしていました。海外メディアが東チモールを去る中、最後まで踏みとどまり、ここで起こっていることを記録して世界に伝えるのが自分の使命だと言っていました。
 取材だけでなく、アグスは、教会関係者と一緒に、略奪にあった人々に水や食糧を届ける活動もしていました。
 1999年9月25日、シスターたちとアグスを乗せた車は、民兵の襲撃にあい、川底へ転落したのでした。


 この夏、私たちは、バリでアグスの遺族に会う約束ができました。また、東チモールで、当時のアグスの足跡をたどる旅の準備もしています。12月には、横浜で、アグスをしのぶ写真展&講演会も企画しています。よろしかったら、ぜひお立ち寄りくださいね。