再掲:旅の報告(1)アグス編

090821


 前夜、無事にバリ島デンパサールに到着。
 日中、クタの街を散歩する。しかし、かつてのような騒がしさがない。2002年のディスコ爆破テロの後、観光客を呼び戻す努力の一環として、権力的な指導が行われたのだろうか。
 街を少し歩けば至る所でつきまとって来ていた強引な客引きも物売りも殆どいないし、道路で腹を見せて寝転がっていた野良犬も見当たらない。
 爆破テロ跡地の慰霊碑まで歩く。新たな観光名所の一つとなっていた、と言えなくもない。複雑な気持ちを抱えながら、手を合わせた。


 今回の旅の目的は、2つ。
・アグス追悼
・ロンボクのNGOとの協働の可能性をさぐる


 今日の記録は、1つめのアグス編である。


 アグスは、私たちの参加する開発NGO草の根援助運動(P2)を通しての友人だった。1997年12月のスタディ・ツアーで通訳をつとめてくれた。その日本語のレベルの高さ、前向きで真摯な瞳、凛とした姿勢、人なつこい笑顔のすべてが魅力的な青年だった。ジョグジャカルタの名門ガジャマダ大学の学生だった。東京大学のAIKOMという交換留学プログラムで1年間日本に留学し、夏、インドネシアに戻ってきたばかりということだった。その後、アグスは現地連絡員として、P2の活動に引き続き協力してくれた。
 大学卒業を控えたアグスの前には、2つの選択肢があった。研究者を目指した大学院進学と、インドネシアや世界の現状を伝えるジャーナリストと。
 時代は、まさにスハルト長期独裁政権が倒れようという時だった。アグスは、後者の道を選んだ。ジャカルタで、ジョグジャカルタで、スハルト退陣を求める人々の動きをアグスはカメラで追い続けた。1999年、インドネシア支配下東チモールで独立を問う住民投票が行われることとなり、アグスも東チモールに入った。8月30日投票、9月4日開票結果発表。圧倒的な投票率と得票率で、独立という住民の意志が示された。その直後から、「焦土作戦」と呼ばれる、併合派の民兵インドネシア国軍の暴行がエスカレートし、各地で多くの犠牲者を出す。9月25日、アグスもその一人となってしまった。享年26歳だった。
 その「暗黒の9月」から、今年でちょうど10年。アグスゆかりの地をめぐり、ゆかりの人々とアグスについて語り合い、追悼したいと思い立った。


 アグスは、バリ島デンパサールの出身。今回、アグスのご家族と会食をする機会を得た。
 ご両親、長姉、弟夫妻、中学生の甥と私たちで1つのテーブル。もう1つのテーブルには、所用で参加できなかった次姉夫妻の子供たちも含め、大勢の甥・姪たち、その友人たち。
 中学生の甥は、長姉夫妻の1人息子で、笑顔や真摯な瞳がアグスを彷彿とさせる。長姉の夫のWiryantoさんが、一族の中心となってアグスに関する窓口をつとめていて、メールも英語でやりとりさせていただいていたのだが、この日は出張のため不参加。代わって、中学生の息子(アグスの初めての甥)がインドネシア語への通訳をつとめてくれたのだ。実にうまい。私たちは顔負けの英語力である。

 私たちはお土産を2種類、持参していた。
 1つは、P2のニュースレターのアグス関連号。特に、今年に入ってからのアグス追悼の連載2回分については、ボランティアに依頼してインドネシア語訳をつけておいた。ご両親は、すぐさまこの訳を読み、涙をこぼされていた。
 もう1つは、AIKOMのアグス関連資料。在学中のレポートなどが紹介されていた。
 また、P2やAIKOMでのアグスの写真も、CDに収めてお渡しした。
 大変喜んでいただけた。
 万感胸に迫り、言葉ではうまく表わせなかったが、アグスへの思いを共有できたひとときだった。

 アグスと、この甥御さんは、同じ丑年だという。甥御さんが生まれた時、アグスは何枚も何枚も、とても沢山写真を撮ったという。甥御さんは、まだ2歳だったが、アグス叔父さんを覚えている、という。別れ際、元気よく、「次会う時には日本語を話せるようになっています!」と言ってくれた。楽しみ!