旅の記録 帰国便を前にまたまピンチ!どうなる?ついに感動の最終回! 

旅の記録 09.8.29 東ティモール編 最終回


 夜11時過ぎ、二階の部屋に集まっていた客の宴会が終わり、静けさが回復した後はぐっすりと睡眠をとることができた。
 
 
 8月の東ティモールは乾季のため、日差しは強烈だが空気は乾燥しており、朝のうちはさわやかである。外に設置してあるレストランでそよ風に吹かれながら、ゆったりと朝食をとることができた。この調子だと今日は今回の旅行で初めての平和な一日になるかもしれない、食べながらそんなことを話し合っていた。のんびりと帰り支度をした後、ミカさんとシスター・モニカに電話をかけた。私の方からは丁寧にお礼を述べ、お二人からは次回の訪問を楽しみにしているという返事をいただいた。フロントに行きチェックアウトをしたところ、イザベルが「ピックアップをチョンボしたお詫びに空港への送りはサービスするわ。」と言ったことを覚えていた。私たちはイザベルとロミオに「次回ディリに来る時もホテル・エスプラナーダに泊まるね。」とお愛想を行って、ホテルを後にした。


 私たちはその後、車の中で「はたしてディリの空港で預けたトランクが成田に無事着くか?」という実にお気楽な話題について話し合っていた。(旅に出る前日、ガルーダ航空のサービスに問い合わせたところ、バリのデンパサールで外に出ないでトランジットできるということだった。トランクが行方不明になっても泣かないように大事なものは手元に確保しトランクはこちらでたまりにたまった洗濯物でいっぱいにしてあった。)


 そんなお気楽気分が空港での搭乗手続きで粉々になった。チェックインのためにメルパチ航空のE-ティケットとパスポートを渡すと係員のおじさんが「あんたの名前のE-ティケットをだせ。」と言う。E-ティケットの細かな字を良く見ると、ワイフの名前になっているではないか。なんとメルパチ航空がワイフの名前で2枚のティケットを発行してしまったのだ。係員のおじさんの恐るべき捨て目!今までこのティケットを見てきた沢山の人たち、航空会社の人も、旅行会社の人も、私たちも、デンパサールでディリ行きの搭乗券を発見してくれたお兄さんも誰も気づかなかった!(※捨て目〜骨董品の業者たちは、細かな手掛かりに気づくことを「捨て目が利く」という。私たちはこの言葉をテレビドラマ「警部補 古畑任三郎」から学んだ。)


 ワイフのE-ティケットも並べて見せて、航空会社が同じ名前で二枚発行するはずないじゃないかと言ってもダメ。二人のE-ティケットはオフィスの中に持って行かれてしまった。


 途方に暮れていたところ、日本人らしき人と現地の人らしい人が傍らにやってきて「オフィスに行ったなら大丈夫。確認をしたうえで搭乗券は発行してもらえます。大丈夫。日本へ帰れますよ。」と力づけてくれた。お話を伺ったところ、日本人のカトリックの神父様だという。もう一人はインドネシア・スラウェシ出身のやはり神父様。彼も日本で活動しているという。しかも日本人のH神父様は、ワイフが親しくしていただいているU先生と同じN大学で客員教授をなさっているということだった。彼からディリではトランジットの手続きはできないので、一回インドネシアに入国しなければならないことも聞いた。


 到着から出発まで、カトリックの聖職者の方々に助けていただきっ放しの旅だった。宗教・信仰の力に目を開かれる思い。H神父様の言葉通り、オフィスから出てきた係員が、名前を訂正した再発行ティケットと搭乗券を渡してくれた。助かった!


 デンパサールの入国手続きは非常に込み合っていて、再度デンパサール空港出国ゲートにたどり着くまでたっぷり2時間以上かかってしまった。ただ飛行機を乗り換えるだけなのに、入国ヴィザとして1人10ドルも取られたうえに、日本への飛行機のチェックインまでまだあと4時間以上ある。私たちは旅行最後の平安な1日をデンパサールのトランジットで今回の旅の余韻に浸りつつスパでマッサージでも受けながらのんびり過ごすつもりであったのだが、そんなお気楽な夢もはかなく崩れたのであった。


 二人の神父様とは、飛行機が飛び立つまで1時間ほど話をする事が出来た。彼らはアグスのこと、シスター・モニカやホセ・アントニオ神父様のこともよくご存じだった。


 H神父様は、99年よりディリで神学校の運営に携わっているということだった。99年、或る日本人神父が住民投票監視団に参加した。日本に帰ってきた後、若いカトリック聖職者たちを前にして東ティモールに対する援助の必要性を力説し、「だれか現地に行かないか。」と迫ったところ、みんながひいてしまったそうだ。そこで彼が「じゃあ私が。」と手を挙げ東ティモールと関係するようになったという。


 カトリック教会は強大な組織であり、資金的にも人的にも力量がある。世界中のいろんなところに神学校が存在する。大学以上の神学校については、バチカンが資金的に補助をして運営されている。ところが高校段階までの神学校には一切補助が出ない。自分で募金を募りお金を集めて東ティモールに送り続けたという。


 彼は自分のことを一面官僚的なところがあるカトリック教会の中の変わり者と言っていた。私はカトリックの人事異動など組織的なことについて質問しながら、川崎浅田カトリック教会の尊敬するエドワード神父様のことなどを聞いてみた。また学生時代から彼らにかわいがってもらっていて、正月、彼らとフランス語で大貧民をした思い出なども話した。もちろん、H神父様もエドワードたちの活動については十分知っていて高く評価していた。彼はまた自分の教え子の一人がシスターになりチャドに赴任し交通事故で亡くなってしまったことなども語ってくれた。カトリック教会は地上最強の官僚機構という側面もあるが、その一方で、世界中のどんな所にも出向いて行って草の根レヴェルでの活動をする、この方やエドワードと話をするとそんな力強さをつくづく感じる。


 東ティモール人の多くはカトリック教徒であり、神父は明らかに不足をしておりミサの実施すら滞っている。ただ神学校の生徒たちはみんな神父にならなくても、きっと東ティモールの明日を支える存在になると思い援助をしている。1年間に300万円あれば、200人の学生が生活をしながら勉強ができる。1999年以来、3年間、1年あたり300万円の支援をし、続く3年間は年間200万円の支援をした。もうこの神学校が自立できるという時に2006年の内戦が起こり元の木阿弥になってしまった。今回は神学校の実情も見たうえで今後3年間は日本からの援助は1年あたり100万円でということを決めてきたと言っていた。


 現在の東ティモールは2006年頃に比べると格段治安が回復しているそうだ。3年前は空港周辺にも避難民が押し寄せて、騒然とした状態だったという。現状は国連などが活動する形で表面上の平和を実現しているが、対立事態が解消しているわけではない。独立に至るまで命をかけて闘ってきたファリンテルの兵士たちは、若いころ森の中でゲリラ活動をしていたため、教育を受けられず字も書けない。新生東ティモールになり森から出てきて市民生活を送るようになったが、貧しい生活をせざるを得ない。その一方で、ポルトガルインドネシアに留学できた人々が、高級官僚として国を牛耳ることになった。そうした不平等に対する不満が噴出したのが2006年の内戦であり、その問題は解決していないということだ。


 初めて訪れた東ティモールは貧しかった。首都の国際空港から一等地の大使館街の最高級ホテルまでの道のり沿いの家々さえ、貧しさを感じさせた。ロンボク島の町や村に対してそれなりの落ち着きと豊かさを感じた後だったので、いっそうそう感じでしまった。ただシスター・モニカの話によるとディリだけが異常に発展していて(これでも!)ディリを出ると更に貧しく、旅をするにしても食料の調達や宿泊施設の確保もままならないとのことである。


 今回の東ティモールは何も知らずの飛び込みだったが、次回は、先方と連絡を取りながら行ってみたい。今回実現できなかったアグス終焉の地に、できればミカさんや今回会えなかったジトやマリオと訪れてみたい。


 成田で無事トランクにも再会できた。洗濯機2回分たっぷり詰まっていた。「ディリの高級ホテルでランドリーに出せば帰ってから楽だよね」というワイフの夢は、カギやらセイフティボックスやらプレスリーやらでとっくに砕けていたのだった。それなのにまた、今度の冬は、来年の夏は、と相談を始めた、いつまでもこりない夫婦である。