みぶん

 「後宮」というと、帝以外は男子禁制のような気がしますが、少なくとも日本の平安時代においてはそうではなかったのですね。光源氏は、母桐壺更衣亡き後、桐壺を宮中での自分の控え室にしていますし、物語ではなく史実でも、皇太子が住んでいたり、貴族たちが会議を行なったりしていたらしいです。


 『源氏物語』の冒頭は、かの有名な、「いづれの御時にか、女御・更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」です。この「際」が、「身分」とか「家柄」とか現代語訳されているのですが、そういうと、江戸時代のように、殿様の子は殿様、家老の子は家老、士農工商、のように絶対的に決まっていて不動のもののように思います。しかし、少なくとも平安時代には、もっと流動的だったようで、あるいはまた、身分という語の意味も現代語とは違っていたのか、決して固定的ではなかったように思います。


 例えば、明石の君はあんなに卑下していますが、祖父は大臣、母も皇族出身です。光源氏の母と明石の君の父はイトコどうしなのですが、辿れば皆血縁関係でつながってしまう狭い貴族社会では、もう一族とか親族というよりは殆ど他人なのでしょうか。浮舟の母も、宇治の八の宮の北の方の姪ですが、女房として北の方に仕えていて、身分の低さゆえ八の宮にもかえりみられず。。。 だからこそ、おじ・姪、おば・甥の結婚も可能だったのでしょうか?


 藤原道長の妻についても、正妻の倫子の父は二世源氏、次妻の明子の父は一世源氏。父については、血筋だけでなく、存命且つ大臣と、失脚且つ逝去という差もあると思います。。。 また、匂宮の妻も、夕霧の六の君がどうやら正妻のようですが、夕霧は臣下の太政大臣で、宇治の中の君は親王の娘、つまり女王のはずなのだけれど。。。 それとも、八の宮が没落して、女王宣下は受けていないのかしら? 親王内親王は、帝の子だからといって自動的になれるものではなくて、帝に認定されて初めてなれるのだそうです。女王についても同様なのかしら???


 どなたか、ご存知でしたら教えてくださいな。