いのちのねだん

 新型インフルエンザのワクチンを、輸入も含めて6000万人分以上確保できている、と厚生労働大臣が発表した。世界的な流行とワクチン不足の中、では輸出側の国はどうなるのか? 当然足りなくなるはずだ。


 人のいのちの重さは平等、というのは現実ではまだ美しい理想にすぎない。高額の医療費を払い、高度な医療を受けられる人たちのいのちは助かり、そうでない人たちのいのちは助からない。


 ロンボク島にも東ティモールにも透析のできる病院はない。これらの土地で腎臓を患ったなら、それは死につながる、ということだ。バリまで飛行機で週に3日も4日も往復できる人が多いはずがない。


 途上国の重債務を帳消しにせよ、というキャンペーンが世紀のかわる頃あった。借りたお金を返すのは当り前じゃないの?というのが、多くの人の率直な反応だったろう。だが、債務は帳消しになった。理由は2つ。1つは、途上国の重債務とは、日本の円借款などもそうだったが、相手国住民のニーズとは無関係に(かえってダメージさえ与え)ダムなどをこしらえてのものであったり、独裁者のポケットマネーになったりしたものであり、それを人々が教育・福祉・医療などにしわよせを受けてまでも返済しなければならないいわれはない、ということ。もう1つは、「ヴェニスの商人」の思想。債務返済のため例えばポリオの予防接種の予算が削られ、それでいのちを落とす子供たちがいるとしたら、それは子供たちのいのちによって返済されている、ということになってしまう。いかなる債務もいのちによって返済されるべきではない。


 災害や事故が起こると犠牲者に日本人がいるかどうかがいつもきまってニュースになる。アグスの死は日本人でないから語り継がれない。インフルエンザのワクチンも日本国内の需要を満たせるかどうかが焦点となっている。