あけましておめでとうございます

Selamat Tahun Baru!
今年もどうぞよろしくお願いします。


年末、「Roots of Many Colors」というドキュメンタリー映画を見に行きました。「外国につながる子どもたち」のその後をインタビューしたもので、つらかった子ども時代を振り返り、成人した現在、社会の一員としてどのように生きているか、後輩たちに語りたいことは何か、などが語られていました。


彼・彼女らがそろって口にしていたのは、学校での壮絶なイジメと、自分はナニジンなのか、という問い。


前者は、日本社会の心の貧しさに悲しくなるばかりです。均質性を押し付けられ、異質性を押し殺されてきた鬱憤が、明らかに異質な他者への攻撃となる、という構図は、過去何度も繰り返されてきたことなのに、まだそこから学び取ることができていない社会なのだということを、しみじみ思わされます。


後者については、「ナニジン」という国家の枠組みの強さをあらためて感じさせられました。明治の近代化以前は、現在のような「日本人」という自明のアイデンティティはおそらく殆どなかったでしょう。あったのは、「会津人」「薩摩人」「長州人」といった「藩」レベルの帰属意識。それぞれの故郷の言葉を「お国言葉」ということにも、それはあらわれています。当時、人々の行き来は原則としてその藩の内部に限られていて、外に出るには特別な許可が必要であったということからも、まさに現在の「国境」が、藩の境界に相当するものであったことがわかります。とすると、現在の「国境」も絶対的な境目・仕切りでないことが見えてきます。「宇宙からは国境は見えません」との言葉は、実に含蓄深いと思います。人為的に引かれた境目で、人を種類分けして、「日本国にいる人=日本人」という図式を作り、それを当り前のこととして受け入れてきた人々=私たち。この映画を見たあと、私は、「在日日本人」「日系日本人」にすぎない、と思うようになりました。
同じように、「在日ブラジル人」がいて、「フィリピン系日本人」がいて。「関西系日本人」も「東北系日本人」もいるように、さまざまな人がいるのが当り前だと思える社会に早くなるといい、こんな些細なことで泣き苦しむ子供たちが存在しなくなるといい、そのため、私に今できることは何だろう・・・と、考えさせられました。


この映画は、自治体や大学・学校などの多文化共生セミナー等で上映されています。検索してみてください。