アグス追悼講演会

 講師のCさんはインドネシア研究者で、アグスの友人の一人。インドネシアの京都と呼ばれる古都・ジョグジャカルタにある名門ガジャマダ大学に留学中、アグスと親交を結んでいた。
 アグスの悲劇の直後に授かった長男に、夭折した人の名前なんてとんでもない、という周囲の猛反対を押切り、アグスと名付けてくれた。
 講演会には、Cさんも家族全員で来てくださった。日本のアグスはすっかり大きくなって、やんちゃな弟の面倒をよくみていた。


 講演は、インドネシア東ティモールで反復される植民地主義をテーマにしたもの。以下、私なりに理解した内容を紹介すると。。。


 どの国もそうだが、国境はもとからあったものではない。政治的・歴史的、つまりは人為的要因によってあとから作られたものである。インドネシアも、インドネシアという国がもとからあったわけではなく、オランダ領であった島々が独立して一つの国を作ったわけだ。
 そのオランダも、かつてはスペインのハプスブルク家の支配から独立を戦いとって成立した。以前支配者側に行われたことを、植民地に対して今度は反復するわけだ。インドネシア東ティモールも同様。


 東ティモールは、ティモール島の東半分(プラス西側にある飛び地)。西側はオランダ領東インドの一部だったが、東側プラス飛び地はポルトガル領だった。民族も言葉も宗教も文化もまるで異なる。
 第二次大戦中、日本はこれらの島々を占領した。敗戦後、旧オランダ領東インドインドネシアとして独立したが、東ティモールは再びポルトガル領に戻ってしまった。
 1974年、アグスの生まれた翌年、ポルトガルで革命が起こり、植民地政策が転換され、東ティモールにも独立の機運がみなぎった。1975年11月、独立派は東ティモールの独立を宣言。
 しかし、東ティモールには独立派のほか、ポルトガルとの関係を継続しようとするグループや、インドネシアと結ぼうとするグループもいた。
 同年12月、インドネシア軍が入り、東ティモール支配下におき、1976年7月、第27番目の州として併合を宣言した。
 1999年8月30日の住民投票が圧倒的多数で独立という結果となったあと、焦土作戦と呼ばれるインドネシア側の独立派に対する攻撃が始まった。9月25日、アグスもその犠牲者の一人となった。


 国連の暫定統治を経て、2002年、東ティモールはついに独立する。
 しかし2006年、兵士の一部が反乱を起こし、政府は武力で鎮圧する。
 ここでもまた植民地主義が反復されてしまったわけである。


 インドネシアの歴史教科書は、東ティモールをかつて支配していたという記述を削除してしまった。歴史を知らない若い世代が育ちつつある。ちょうど日本の若い世代が日本のアジア植民地支配を知らないのと同じように。。

 講演は14時30分からで、その前に13時30分からJICA横浜「国際協力はじめの一歩」報告会として2009年の東ロンボク調査報告を行ったのだが、13時過ぎには早くも来場者があった。
 その後も参加者は増える一方、準備した資料が足りなくなりコピーに走るなどそうそうあることではない。皆さんどこからどのように情報を入手し、どのような思いではるばる足を運んでくださったのか。うれしいやら驚くやら。用意した補助椅子も足りなくなり、慌てた。


 講演会のあと、活発な討議や参加者からのメッセージがあった。これについては次回ブログで。